Thursday 27 December 2018

平成の御世とは Part1


 マジで一年半ぶりのブログ更新す。忙しさにかまけて、更新を怠っていました。このブログは基本的に自己満なんすが、思考の整理という点で実は大切なプロセスな気がしてます。ということで、出来るだけ息抜きに、これからも更新をしていきたいす。

 今年に入って突然、「平成最後の!」みたいなのをめっちゃ耳にします。目にします。基本的にそういう風潮嫌いです。お前これまで平成の御世について別に特に思い馳せたことなんてないやろと。ただのマーケティングのワードとして使っとるやろと。思うわけです。でも先日の天皇陛下の御言葉をお聞きし、少し考えも変わりました。確かにそういう風潮は嫌いだけど、この平成という時代とはなんだったのか、それを考えること自体には大いなる意味がある気がしました。平成という時代の総括をしようと考えるキッカケを陛下から賜ったこと、そして実際に行為に移せていること、それ自体は素敵なことやなと思います。
まだ読んでいない人は是非。敬天愛人ってこういうことを言うのでしょうか。ちなみにこのロジックは、クリスチャンでもないのにクリスマスとか浮かれてる風潮嫌いだぜ。でも大切な人と過ごす時間だったり、大切な人と喜びを分かち合う時間を作るキッカケができたことに感謝する。そんなシチュエーションに似ている気がします。

 この平成をどう捉えるか、それは物事をポジティブに捉えられる人か、ネガティブに捉える人か、という境界線な気がしています。もちろん平成に生まれ、これまで平成しか生きてきていない、平成しか知らない僕としては、平成をポジティブに捉えたいす。自分の生きてきた二十余年の歳月が、そんな最悪なものだったなんて思いたくないし。昭和生まれのおじさんが、やたらと昭和を美化して平成を貶す、平成生まれの僕らをこれだからゆとりは〜と貶めるのは、ある程度仕方ないとは思うんです。人間ってそういうもんだと思うから。思い出は美化されて、一生良いものとして記憶に残るものだし。実際にそんなに良かったのかは置いといて。灰原さんもそう言ってました。
 でも少し悲しいのは、Twitterなどで見る限り、案外僕の同世代くらいの人たちに多い、平成って最悪やな!日本も終わりやなあ。。。みたいな投稿をかなりの頻度で見ること。さとり世代も然りだけど。確かに今年は日本全国で自然災害が多発して、負の側面がクローズアップされがちだったのは分かるんす。バブルみたいに世の中全体がイケイケドンドンで、分かりやすく先行きが明るい!みたいなことは経験できてないし。そういった意味で10代、20代の人は基本的に厭世的なんだろうなあと。同じ現象の、悪いところ、嫌いなところばかりにフォーカスして、ブライトサイドはあまり見ようとしない。それでなんとなく分かった気になって、勝手に世の中に絶望する。そんな風潮を結構感じます。別にその人の生き方なので、否定はしないすが、僕は周りにそんな人ばっかだったら面白くないし、何よりもそんな考え方、生き方をしてる自分には耐えられないす。ネガティブを人に伝染する自分も許せないし、そういうサークルにばかり族したら、流石にスーパーポジティブの僕でも潰れます笑 ただし、大切な人が潰れそうになったら、とことん付き合って、メビウスの輪から抜け出させる気概はあるつもりす。

 さあ話戻って平成について。結論から言うと、平成は江戸、明治、大正、昭和に出てきた社会の膿みが、歪みがフィックスされる。そんな時代だったのでは、と思います。良くも悪くも。非効率な残業がIT化導入によって減る、謎の出張がICT網の発達によって不要になる、グローバル化進展に伴う業界地図再編によって大企業の既得権益が無意味化する、人権意識の伸長によってこれまで不遇の思いをしてきた人たちの居場所ができる、などなど。どれも昭和以前には達成できなかったことなのでは。
 ちなみに4つ目の人権云々に関しては補足が必要そうな気がする。これは昭和以前でもできたやろ、って思うかもしれんけど、まあ無理だったやろなと。朝鮮特需、高度経済成長、バブルの時代には、世の中全体がイケイケで、経済成長というただ一つのゴールのために走れば良かった。合理性ばかりが求められて、社会の取り残されたピースや闇、はみ出し者には蓋をして見て見ぬフリをすれば良かった。経済成長という旗印が最大の行動原理であり、人々のよすがであった時代が昭和の後半だと思う。そんな日本を西部邁先生なんかは、心を失った人々と憂いていたのかなと思うわけです。だから、逆にこの失われた30年に、経済が停滞したから、社会が止まったから、一見合理的ではなさそうな、はみ出し者にも人々の目が行くようになったのかな、と思うわけす。多分、日本の電車の精神的息苦しさ、東京の冷たさって、こういう経緯によって作られたもんだと思ってます。
 「多様性に富む日本」というのは、僕が理想に掲げるこの国のカタチの一つなんですが、それに少しでも近づいているのは、やっぱりこの平成だと思う。ちなみに日本には昔から多様性ってたくさんあると思うんですよ。小国町にはマタギの文化がまだ生きていたし、高千穂周辺では神話の世界観が、椎葉村では焼畑が、多摩には実験都市精神が、船橋にはDQNスピリットが、渋谷にはパリピ精神が、というように前から違いがあるんですよ。新たに生まれた違いもある。これまではそれを認識していなかっただけ。多様性も、認識されなければ多様性ではないので。僕とあなた、だいぶ違ったように見えるでしょ。誰一人として同じ人間などいないわけです。そしてそれは非常に素敵なことだと思うんす。みんな違ってみんないいbyみつを。そしてそれを認識することを恐れず、むしろ積極的にアプリシエートしていこうよと。そして、イノベーションは多様性の中からしか生まれないと僕は思ってます。シュンペーターの新結合理論の信奉者なのかなと思われそう笑 結合するには、まずは認識されないといけない。ということで、今我々はそのスタートラインに立っているんだと思うんす。ちなみにイノベーションの重要性は、妹尾堅一郎先生のアイディアを参考にしてます。なんか、希望が湧いてきた気がしませんか。

 多分僕も平成じゃなかったらこんなにデカい顔して、自信持って、堂々と生きてられない気がします。東京とかシンガポールがあまり好きではないんですよ。雰囲気が。日本の田舎、マレーシアの意味分かんない感じが心地いい。自分としても書いてて希望が湧いてきた。読んでるあなたも、少し希望が湧いてきたでしょ。
 眠くなってきたので、続きはまた今度書くことにします。この平成の御世が終わらぬうちに。

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